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TERUMO STORY エピソードで綴るテルモの歴史 SINCE1921

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8万3000通のダイレクトメール
───初期の体温計販売戦略

懸賞金1000円。ネーミング募集の広告戦略を立てる

大正時代の藤本真次商店 大正時代の藤本真次商店

1921(大正10)年9月、体温計メーカーとして第一歩を歩み出したテルモでしたが、生産した商品をどのように販売していくか、いつの時代でも企業が直面する大きな課題が横たわっていました。テルモの創立に尽力した笹川三男三博士は、販売についても構想を立てていました。それは、当時仁丹本舗主であり、産業人として社会的な成功を収めていた森下博に、体温計の販売協力を求めることでした。すでに新会社設立前から協力を要請していたこともあり、森下は快くその申し出を受けてくれました。

森下はまず大阪の藤本真次商店に、テルモの生産した体温計の販売を一手に委ねることにしました。しかし、その当時、販売免許店は全国で9600店もある一方、体温計の需要は少なかったことから苦戦を強いられました。森下はそこで商品の宣伝のためにある戦略を打ち出しました。翌1922年の正月、新聞紙上に体温計のネーミングの懸賞宣伝広告を打ったのです。1等の懸賞金は1000円で、当時の銀座・三愛前の土地1坪と同じ金額といえば、いかに高額の懸賞金だったかわかるでしょう。

懸賞金の高さもあったのでしょう、応募人数は61万496人に達したといいます。そこで決まったネーミングは「仁丹の体温計」。以後、テルモの生産した体温計はしばらくの間、「仁丹の体温計」として販売されていきました。

逓信省始まって以来の大量小包発送大作戦

1923(大正12)年9月1日、東京を中心とした関東地方を大地震が襲いました。死者・行方不明者10万5000人に及ぶ大震災でした。この大震災によって多くの体温計が消失したことと、一時的な復興景気も手伝って、体温計の需要は急拡大することとなりました。当時のテルモの製品の品質は著しく改善されており、値段も他の商品が1本2円台のところ、3円で販売されていました。しかし、そのうち、強力なライバルメーカーが出現したため販売が伸びなくなり、1925年には平型体温計の在庫は40万本を超えるほどになっていました。

森下はここでも独創的な販売戦略を立てました。「紳士録」から8万3000人を選び出し、平型体温計3本を送りつけたのです。

包みには体温計のほか、仁丹が販売する粉歯磨などを入れ、もし体温計が必要なら集金に行くが、不要の場合は粉歯磨を返送料の引き当てとして、体温計を送り返してもらうことにしたのです。これほど大量の小包発送は当時の逓信省始まって以来のことで、郵便局から局員がテルモの工場に出張して発送業務が行われたといわれています。

こうした販売戦略のおかげで、1週間もすると販売員は集金にかけずり回らなければならなくなりました。技術改良に努力する一方で、体温計の販売にあたっても独創的な視点で取り組んできたのです。

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