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TERUMO STORY エピソードで綴るテルモの歴史 SINCE1921

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テルモ創業の志と北里柴三郎博士

近代医学の父、北里柴三郎博士ってどんな人?

破傷風やジフテリアの血清療法を開発

北里柴三郎博士

北里柴三郎博士は、わが国近代医学の先駆者として知られていますが、日本ばかりでなく、世界の医師・研究者からもその業績は高く評価されていました。なかでも、破傷風やジフテリアの研究は北里博士の名を広く世界に知らしめたのです。

1886(明治19)年、ベルリン大学に留学し、結核菌やコレラ菌の発見で世界的に有名なロベルト・コッホのもとで研究をはじめた北里博士は、「破傷風菌の純粋培養」に成功し、師のコッホをあっといわせました。破傷風は破傷風菌が傷口などから体内に侵入して増殖すると、細菌がつくる毒素によって、けいれんなどの症状があらわれ重症になる疾患です。当時、破傷風菌を単独で取り出して純粋培養することができず、有効な治療はありませんでした。

北里博士は破傷風菌の毒素を少しずつ動物に入れると菌の毒に対する耐性ができて、大量の毒素を注射しても発病しないことを突き止めました。この研究の成果をもとに、破傷風の血清療法を生みだし、伝染病の予防に大きく貢献しました。その後、この血清療法をジフテリアに応用するなど、免疫医療の先駆者として高い評価を受けました。

北里博士のこうした研究は、いまなお、現代医療に大きな貢献を果たしているのです。

ペスト菌を発見、その感染予防法にも独特のアイデアを提案

北里博士は、1894年(明治27)年にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげました。また、ペストの感染予防のために、患者の隔離と検疫・上下水道整備などの「伝染病予防法」の成立にも力を注ぎました。ペスト菌はネズミを媒介に感染することから、「感染防止のため、一家に一匹猫を飼うとよい」と提唱するなど、独特のアイデアも提案。日本に衛生思想を根付かせるために大いに貢献したのです。

日本人で初めてノーベル賞候補にノミネート

北里博士は、当時のヨーロッパで大流行していたジフテリアの血清療法にコッホの弟子のベーリングと取り組み、医学の世界に一大革新を起こし、この研究でノーベル賞候補にノミネートされました。けれども、なぜか受賞したのはベーリングだけでした。しかし、柴三郎は日本人ノーベル賞第1号にいちばん近い日本人だったといえるでしょう。

軍人志望から医学への道を志す

こうした、偉大な医学の先駆者であった北里博士は、いったいどのような生い立ちだったのでしょう。

北里柴三郎は、1853(嘉永5)年、肥後の国阿蘇郡北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)に生まれました。幼少のころはかなりのわんぱく坊主で、剣術や槍術に憧れ、武士の家系であったこともあり将来は軍人になることを夢見ていました。けれども、両親のすすめで熊本医学校に進学することになりました。医学校で初めて顕微鏡をのぞいたとき、拡大されたからだの組織を見て感激し、「医学も学ぶに値する」と感じたと言われています。

国民の衛生思想、予防医学に必要な細菌学を学びたい

柴三郎は東京に出て医学を学ぶことを決意、1874(明治7)年、東京医学校(現・東京大学医学部)に入学し、本格的に医学の道を進むことになりました。しかし、柴三郎は医学校でただ医学を学ぶだけではなく、日本の医療のありかたにも関心を持ちました。「病人を救う医療も大切だが、医療の使命は病気を予防することにある」。そう考えた柴三郎は、地方の病院長や医学校長ではなく、給料は少なくなっても、内務省衛生局(現在の厚生労働省の前身)に勤める決心をしました。ここで国民の衛生思想や予防医学についての関心をいっそう深めた柴三郎は、ドイツに渡ってこれからの医学に必要な細菌学を学びたいと考えました。

高い志を持って、ひたすら研究に没頭する

ドイツ留学中の柴三郎は、来る日も来る日も研究に没頭し、下宿と教室のあいだの道以外は知らなかったと言われています。

柴三郎は「日本は開国して日も浅く、何ひとつ欧米諸国に肩を並べられるものがない。世界的に評価される学者も出ていない。だから、私が世界的な学者になるのだ」と、勉強にうちこんだわけを述べています。

信念を持って、権力に屈せず、自説を曲げず

日本に帰ってきてからも、柴三郎はペスト菌を発見したり、脚気が栄養障害であることを突き止めるなど、次々に医学上の偉大な業績をあげました。しかし、こうした偉大な発見もすべて順調にいったわけではありません。脚気の研究では、当時の医学界の権威である東大教授と意見が対立、政府は帰国した柴三郎に研究室ひとつ用意してくれなかったのです。それでも柴三郎はめげることなく、自分の実証的な研究成果に自信を持ち、決して自説を曲げませんでした。

慶應大学医学部、北里大学の創設に力を注ぐ

柴三郎は、その後、慶應大学の創始者・福澤諭吉の設立した私立伝染病研究所の初代所長に就任、さらに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の前身)を設立しました。また慶應大学医学部の創設に尽力し、お世話になった福澤諭吉に恩返ししています。

野口英世や志賀潔などの弟子たちは、「ドンネル先生(ドイツ語で雷親父)」と呼び、畏敬の念を持ちながらも、反面大変な人情家である柴三郎の人柄に親しみを持ったと伝えられています。

わが国の医学の発展に尽力し、多くの業績を残した北里柴三郎は、江戸時代末から明治、大正、昭和を生き抜き1931(昭和6)年6月、東京麻布の自宅で脳溢血によってその波乱の生涯を閉じました。

北里博士の思いを受け継ぎ、テルモは「医療を通じて社会に貢献」します

わが国の医療の進歩、予防医学の発展に大きな足跡を残した北里柴三郎博士。テルモの創設に関わった博士は、体温計の製造が「国民医療」に不可欠であり、国民の健康に寄与するという信念を持っていました。テルモは、北里柴三郎博士の思いを受け継ぎ、「医療を通じて社会に貢献」することを企業理念としています。

いま、脳卒中、糖尿病、心臓病、高血圧などの生活習慣病を中心とする疾病の克服が国民的な課題となっています。これらの疾病の高度な治療はもちろんのこと、早期発見、予防まで、テルモはオンリーワンの技術とたゆまぬ研究開発、医療関係者との協力によって、その克服に力を注ぎます。

 

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